トマソン構造体その2 無用階段

ダメになった男を女は見捨てるが男はそこに救いを見出だす、差別と偏見に満ちた考えだが実際そうだ、これは群れの本能に基づいていて科学的な根拠すらある。母親くらいなもんさ、ダメになった男に手をさしのべるのは



深夜バスを乗り継いで街並が凝縮されやがて忙しなく動き回る人の流れとビルの谷間から射す陽光とネオンの光に眼をあてられ、心地よいエンジン音も排気ガスの群れに埋もれてしまい私の安眠は完全に妨げられ目的地に着いた。
新宿のロータリーに迷いながら駅の改札を二度間違え、地下鉄を二段エレベーターでくだりホームの換気孔から漏れる空気を浴び線路の先の暗闇の向こうの小さな灯を見つめて立っていた。


大学時代の懇意にしていただいた教授は地政学と文学をまたにかけた研究をしている方で、よく講義といい東京の様々な駅の名所や地政学的な問題、街の構造等を観察させ、そこから考えられる人々の生活をイメージさせたのち、必ず決まってその地の名店と呼ばれる飲食店に入りごちそうになった。足を使うのが教授の研究スタイルだそうだ。街の形成には必ず経済と文学が絡み合うと教授は言う。その理屈は理解し難かったが独特な観点から物事を推察する能力は、私もいくらか影響を受けたはずである。


「それで教授は、なんて君を評価したんだっけ?」
「リスクのないところから物事を見ようとする覗き屋だと」
「たまげたな、正に言い得て妙だ。」
「戦争には誰しもが行くことになる、武器を使うかキーボードを叩くかの差しかないが実際には同じことで、誰もがはじめは足がすくむ、上司が高圧的なら涙を流す、大男でもそうなる。貧弱な身体は今のうちに鍛えておくといい、いざというとき体が資本というのは、心を支えるのが身体だからだ」
「おかしなもんだな、学生にかける言葉とはとても思えん」
「そういう人なんだ、でも今では教授を変人とは思わない、むしろ教授が正常なんだ」
「俺たちは壊れちまったよ」

神田の喫茶店に我々は腰を落ち着けていた、彼はビーフカレーを、私はライスにメロンソーダだけを注文し、タバコをふかす彼と学生時代の話に花を咲かせていた

「昔はよかった」
「ああ、確かによかった」
私たちの間にある「よかった」は大きな欠落が存在する。お互いがそれに触れることはなかった。彼女の存在と三人の夢、そして何より私の現状と彼の現状は大きく変わってしまったからだ。

「最近、何聞いてんだ?」
「ジョニーグリーンウッド」
「なんだそりゃ」
「映画音楽さ」
「それで、仕事の方はどうなんだ?先生」
「ずっと準備中さ、こう見えて明日も明後日も資料を集めないといけない、教授が教えてくれた足を使う方法さ」
「とても順調には思えんな」
「でもやるしかない、そういもんだろう、仕事は」


茶店を出ると雨が振りだしていた
傘を持たぬ彼はそのまま近くの地下鉄駅に逃げ込みどこか遠くの歓楽街へと向かった。私は傘を指さずにコートのフードをかぶり大通りを渡る連絡歩道橋を登った
道路の往来が雨音と混じり心地よいリズムを生んでいた。ポリリズムのような空間的哀愁、本来はただ通行のためだけの用途にしか使われない階段とその橋が、このときだけは芸術性と神秘性を持っているように私には思えた。深いため息とフードにあたる風の音、そして忘れた記憶が、確かにそこにあった。私は懐からカメラを出し、雨にあたらぬようシャッターを慎重に切った。

「私、もうお酒やめるわ」
「なんでまた、どうせやめられるわけないよ」
「先月、財布を失くした日、おばあちゃんから貰った大事な財布をよ、その前日にたらふくお酒を飲んでた。」
「そのまえのまえの月も、あなたたち二人と喧嘩したでしょう?やっぱり前日にお酒を飲んでました」
「だからって?」
「そう、きっとそういう巡り合わせなのよ」
「そりゃあ、寂しくなるな、では今日で最後にいっぱいやってかないか?」
「そうね、最後のいっぱいを」


私たち二人はこじゃれた庶民的なバーに入りお互いの今後のための祝杯を上げた。私はゴッドファーザーを、彼女はロングビーチを飲んでいた。2杯3杯と酒は進み、気がつけばお互いの秘密を打ち明けあっていた。
「つまりね、彼は私に付き合わないかともう4回も断っているのによ」
「まああいつらしいと言えばそうだが、君らはここ数ヶ月全くそんな風に見えなかった、いつも通りだった」
「そういうのも悪くないじゃない、秘密あっての友よ」
「いや、素直でいることがいちばんだと私は思うね」
「そうかな」
「ああ、素直でいるべきだ」
彼女が黙ってしまったので店内の喧騒が気になりだしてしまう。店員と眼を合わせても注文を取りに来ないので仕方なくメニューをひろげ、シーザーサラダとドリンクのおかわりを注文しにカウンターへ向かった
ドリンクを両手に持って席に戻ると彼女はそこにいなかった


会計を済ませ彼女の携帯に連絡を入れて見ても、何かしらのレスポンスは得られる途方にくれ私は歩き回っていた、今日のように小雨がだんだんと濃くなり、そしてあの連絡歩道橋の階段を登った。そこに彼女はいた。
「寒くないか?」
彼女は傘もささずコートも着ていなかった
「私ね、本当はもっと正直に生きてると思ってた」
「ずっと正直に生きてると、潔癖症みたいに簡単に嘘がつけなくなって不器用になるだけだぞ」
「って、言ってたね」
「でも、もうお酒は辞めます」
「そうだな、よくないよこうやって突然いなくなられたら」
「ふふ、だよね」
しばらく往来の車線の放つ光の雨に眼をやり
「こういうの苦手なんだよね、最後とか、卒業式みたいな、ドラマや漫画の最終回とか、どうして終わる時ってこう物足りないような、焦燥感みたいなものが残るのか」
「夢見がちだからじゃない?子供っぽいもの」
「これで女と酒飲む機会も終わりか」
「またいつか飲めるよ」


そういって彼女は私たち二人の間から消えた。そこから私は鬼のように早く卒論を仕上げ、彼は企業への内定が決まった。1月の半ばのことだった。