死への傾向性とその信仰 バナナフィッシュに魅了される若者たち

それはある種の信仰である



僕たちはいつも心のどこかでこう願う、もしこの生活のサイクル、煩わしい人間関係や仕事のストレス、メディアの向こうから伝えられる残忍な映像や下世話な噂話、時間や体力や金を気を使い消耗させていく自らの限定的な資本、そして自己の内面にある鬱屈した欲求や懊悩から解き放たれて本当の自由を手に入れることができたら、と



それをあたかも解決せしめるような方法が、1つだけあるように感じられることがある、それが死だ。


根源的な生命活動の恐怖の対象でありながら、肉体と精神と現実世界の認識との束縛を解放してくれるものがそれであると人は信じて止まない。


創作物やメディアのセンセーショナルな事件の報道では死は最も劇場の盛り上げ役を担う。
それを見て僕たちはこういう盲信を抱き始める。


間違いない、死の中心に自分が居たら、誰かが僕に気を留めて、くれるだろう?葬式を開いて、丁寧に身を埋葬して、そして未来永劫心の中で信仰の対象としてくれるだろう?


憎しみあっていた家族が、親や子の死によって突然団結し始める、または宗教や国のいさかいが、悲劇的なテロリズムや災害によって垣根を越え団結し始める。


死は、悲観的な一面を抱えながら、どこかで人間を大きくプラスに変える劇薬なのだ


そう、それが見ず知らずの他人のものであれば…



だが実際どうだろう?身近な人が死に、悲しみはする、しかし何れはその人も死に、誰も覚えていなくなる、幸運にも墓石が残ればどこかの住職か誰かが祈りを捧げてくれるかもしれないが…


それどころかどうだろう?この様々な事が日々変わり続ける生活の中で、死んでいった僕たちを忘れずにいられるだろうか?もうすでに、その記憶や感情たちは、歯を磨きパンを焼きコーヒーを淹れるその一瞬でどこか脳の細胞の彼方に凝縮されてしまっているのでは…
本当に死は自由への解放か?



シーモア・グラスの死は太平洋戦後のアメリカの若者たちに衝撃を与えた
それは海を越え、バナナフィッシュに魅了された僕たちは後を絶たず、生活の中でバナナを咥えた魚の影を見つけては、バナナ熱に怯えて、或いは憧れて、なまっちろい脚を見られたことを気にしたと言って恋人の隣で自分のこめかみに引き金を引くこと
を考えている


だけどね、シビル、これだけは断言させてもらおう



死、そこには自由はない、あるのはただ、誰かの語り種とカタルシスの為の価値だけだと




僕たちは生きてこそ自由を手に入れるべきなんだ