擬態する狂気


あるどこかの時点で、自分と他人とを隔てる意識的な壁を自覚する瞬間、それが人が人として大人になっていく過程のスタートらしい。


客観視、とも言うのか、物心つく、がこの場合は適切かもしれないが、その表現だと少し若過ぎる印象もある。


理屈っぽい哲学的な話がしたいんじゃない!(じゃあこんな前フリ書くな)
つまりだ、人が自分のアイデンティティを持ち始めること、それが成長のはじまりだと言いたい


これが、恐ろしく俺は遅かった。ぶっちゃけここ一、二年のことだと思う。


大学の新歓時期なんかその境目が面白いくらい別れる。自分で行動して自分のしたいことがはっきりしてる奴はその後のアイデンティティや自分の居場所をつくることに成功する。
新歓コンパでキョロキョロしてる奴はたいてい大学生活で自分のコミュニティ作りに失敗する。
俺はそこでは運良くコミュニティに入れはしたものの、アイデンティティは偽り続けていたし、そもそも虚飾ばかりでなかなか自分の言葉を発することができていなかった。


実際この虚飾も、悪いことばかりではないとは思う、それを本物にしようと努力すればアイデンティティになる。だけれども時間と労力を要することは間違いないし、それを知っているならとっくに大人らしい行動が取れるだろう。


ある就職面接の時のこと、ものの数分の自己紹介と質疑応答だけで面接官は俺にこう言った。


「君は自主性がないね」


社会で生き抜くには自主性が云々、説教をされた。理由はわからない、何がそう思わせたのか?俺の人生の何を知っているのか?面接官の貫禄がそれを悟ったのか、今でも鮮明に記憶していて、俺は訳もわからず泣きながら駅まで歩いていた。


23、4にして、まるで大人らしさがないのは自覚していた。
ファッションとか見れば、その人が今どういう精神年齢の段階に居るか、見抜ける人は見抜けるんじゃないだろうか?俺はまだ、見た目のセンスからしても高校生くらいなもんだと思う。


最近になってようやく、はっきりと自分のアイデンティティを、自認しつつある


それと同時に少しずつ、気持ちが楽になっていくような気もする(これが上手く続くかは自信はない)


毎日の生活、誰かと比べ、劣っていたり不器用さ故の失敗をしたり業務に圧迫されたり人間関係に悩んだり…
思うような成功が得られない、羨望や嫉妬の感情で自己欺瞞に胸の内が煮えている…
もしあなたが、そうやって何かに苦しみ、人生の意味を見出だせないでいるのなら、それはアイデンティティを自覚していないか、自認できないかのどちらかじゃないだろうか?



アイデンティティと生活とのギャップ、その苦しみから解放されたかったら、アイデンティティを変えることはできない。擬態には痛みが伴う。生活を変えるか、認めるしかない、自分の中の狂気を………



変態行為、常識はずれ、バッシング、奇異の目で見られるフリークス
そうだとしても、その狂気はアイデンティティなんだから…


数年前、社会に出た友人だと思っていた人が「普通になりたい」と言ったことに酷くショックを受けたことを覚えている。あの時既にちょっとした自覚はあったけれども、ずっと誰かの生活に擬態して自己欺瞞し続けてきたんだろう。それを今は少しばかり後悔している。