闘争領域の拡大


人間関係や事務的仕事にはてんで要領の悪く不器用な人間だったが、筆記試験は昔から得意だった


忍耐力はなく、人並みかそれ以下の努力しかしなかったがそれなりにクラスで上位の成績を修めることができたのは、一重にあるコツを実践してきたからだ


それは勉強中、試験中、「わからない」という言葉を使わないということだった


いや実際にはつい惰性で、わかんね~と言ってしまう。やりたくないという気持ちは常にある。
だがやらなくては前に進めないし、という惰性による効率化だけで乗り越えてきた


この考え方はいつの頃か、テレビかなんかで「わからない」と思うと人間は思考を停止し始めるから「わからない」と思わない方がいいという心理的作用を知って以来だ。どんなに困難な問題でもとりあえず手を動かし、少ないヒントと知識から正解を導くことに慣れていった


特に効果的だったのは英語と数学だ
英語の難関はやはり長文だ、しかしどんなに難読な長文でも「わからない」と思わず、設問の下線部の前後のセンテンスから微妙な用語を抽出する、特に逆説や接続詞や数字に注目するとその設問の大義を理解できる。最悪でも五択のうち二択程度には絞ることができる


数字の場合は図形や文章問題で役に立つ、図形ではいくつかのヒントがちりばめられており、例えば円や三角形の一部に簡単な数字(多くは整数)がふられており、そこから本来必要な公式の知識がなくとも無理やり計算から回答を導ける場合がある。文章問題では確率や速度の問題ほど、やはり公式外のヒントによって無理やり数えて回答が導ける場合がある


もちろんこれらは知識を要求する専門的な問題で あればあるほど、上手くいかない場合が多い、実際俺は英作文はほとんどできなかったし、数学は複雑な公式を要求されるとつまずくことが多かった


歴史や生物化学などはほとんど知識問題なので、結局この考え方で粘って点数を稼げるのはごく一部だった


だからこそ俺は何かの拍子で気合いを入れて頑張っても、クラスでの順位はそう大きく変わらなかった、そこにある壁は大きく、大学受験は失敗し、浪人した


受験が終わると俺は目的を失い、長い惰性の渦に陥った。今でもこれに苦しむことになるが、結局のところ人生でも目的が「わからない」生きる意味が「わからない」と言うから脳は言葉の心理作用によって思考を停止し「わからな」くなってしまうんじゃないだろうか?


もちろん、「わからない」を言わなくなったからと言って人生の意味が悟りのように理解できる訳はない。むしろ、思考停止によって気づくことのなかった不安や恐怖と戦っていくことになる



「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない、肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ」


イノセンスの荒巻課長によるロマン=ロランの言葉の引用だが、望んだり生きたりすること、というのは闘争領域を拡大することなんだ


ミシェルウェルベックの闘争領域の拡大、自分という領域、今ある社会階級や生活環境から脱却しようという行動を取らなければ、いずれは誰かに奪われることになる、それは病気や仕事が原因かもしれないし、同僚や親や老いがそれになるだろう
緩慢な死が、常に自分に迫ってきていることに自覚がある人は少ない


就活をしなければ仕事には就けないし、告白をしなければ恋人はできない。仕事をしなければ昇進はできないし、誘わなければ友人は増えない、興味を持って調べなければ趣味は増えないし、街に出なければ美味い飯にはありつけない


受験勉強の時は、目の前に渡されたテキストとプリントをこなし、他の生徒が居眠りしている間にペンをとれればそれで良かった


受験戦争が終わり、次に待っていたのは開かれた、真の自由領域での闘争の世界だった
自由でいて残酷な、生き死にに関わる闘争が常に自分に突きつけられていた


それに恐怖し望んだり生きたりすることと闘わなくなれば待ち迎えていたのはゆっくりとした死、受験日当日のようにはいかない、いつくるともわからない審判


いつまでも「わからない」と言って思考を停止していれば、それに気づかずに笑って死ねるのかもしれない